ハイパースナックサザナミのオープンのため6月30日で現BAR SAZANAMIは終了です! 7月1日から22日まで工事と準備のためお休み頂きます。 7月22日にプレオープン会、機材等揃っていないのでお酒と空間を楽しむパーティーをさせて頂きます。 それからまた一週間お休みを頂き7月29日を正式オープンとさせて頂きます。 よろしくお願い致します。 ちなみに今日6月27日から30日までは現BAR SAZANAMIに残っているお酒だけで3000円で飲み放題の特別なコースをご用意致します。 在庫整理のついでですが皆さん飲みに来てください〜!!!!...

人間誰しもさみしいものです。 例え家族が居ようが恋人が居ようが仲間が居ようが、決定的に最後の部分では孤独です、さみしいものなのです。 悲しいけれども人間はそういう風にできているのです。   死ぬ時は、生命がこと切れる時は、最後の一瞬意識を失う時は必ず意識は一人です、自分で部屋のライトを消すように命の光を落とすのです(意識もなくそういう状況になる場合も多く、それも孤独といえます)。   そもそも孤独について、さみしさについてなぜこんなに人間はマイナスイメージを持つのでしょうか? そして孤独とは、さみしさとはそんなに忌み嫌うものなのでしょうか?   人は一人では生きていけません、誰かの手助けや心遣い、他者との関わりあいで人生は成り立ちます。 生まれてこの方まったく誰の力も借りずに生きている人間など皆無です。   衣食住には他者との関わりあいが必須です、何かを買うにも誰かと関わりあいます。 例えお金を渡し「レシートはいりますか?」「いりません」という簡単な会話も大小の差はありますが「関わりあい」です。 他者との関わりあいもなく成人になる人間なんて現代日本においてはありえません。   誰との関わりあいもなく生きる、それが「孤独」であり、まったくの孤独100%で今までずっと生きてきた人なんて、ただの一人も居ないと思います。 例えば、過激なことを言いますがいじめた者、いじめらた者、その二者感には加害者と被害者であるという関係性が生まれますし、そういう一見良くない行為においても「関わりあい」は存在しているのだと思います。   「自分は孤独である、さみしい生き物だ」という意識、そしてそこから生まれてくる「さみしさ」とはなぜ生まれてくるのでしょうか?   考察される一つの原因としては他者の非孤独、非さみしさ、つまりは「集団で居る」「組でいる」「団結している」「団欒がある」「にぎやかしくいる」「団結している」その様が羨ましく、妬ましく、自分にその状態が無いからこそ孤独を感じ、さみしさも併発するのではないでしょうか?   面白いことに「孤独」の対義語、反意語って正式な固定された語ってないんですよね。 「孤独」の反対の言葉が無い…これは的を射ているんじゃないんでしょうか?   つまり「孤独」とは内包的なもので本当は実態のないもの、というか人は誰しも元々孤独であり、さみしいものであるという事実、そこからどう逃げようと足掻いても結局は無駄という… ちょっと考えたらそんな思考にたどり着きました。   しかし、果たしてこの「孤独」というやつ、「さみしさ」というやつ、果たしてそんなに皆が嫌うほど悪い奴なのでしょうか?   もし孤独やさみしさが存在しえ無かったら? 素晴らしい文学作品に心を奪われるような美術作品は生まれたでしょうか? 感情が鮮やかに伝わる名曲に詩、クリエイティブ的なものはここまで発展したでしょうか? 科学技術の発展にも貢献しているかもしれません。 世の中を動かす上で必要不可欠なものなのかもしれません。   当たり前かもしれません、人間のプリセットの一部に「孤独」も「さみしさ」も組み込まれている基本的な内包感情であり、それが人間を成り立たせている重要な根幹の一つであるからです。   つまり「孤独」上等、「さみしさ」歓迎、という姿勢で生きていけばいいんじゃないでしょうか? まあ、いずれにしても人は誰しも孤独になり、さみしさをと共に生きる、生きざるを得ない生き物ですからね…。 致し方無い部分もあるかと思うんです。   自分の場合「孤独」や「さみしさ」の中に自分を鍛錬し磨ける部分を見出していたりします。 圧倒的に何か閃いたり、考えついたり、物事を動かす重要な判断って孤独の中に、さみしさの中に、そういう時間の中にあるような気がします。   自分で孤独の中考えた事を後日誰かに話してみたり提案してみたり、そこでもらったアドバイスや助言を噛み砕くためにまた一人になって考えてみたりして物事を決めていったりします。 慎重な人ほどより孤独なのかもしれませんね。   そう考えると意外と孤独やさみしさも案外悪い奴じゃないように思えてきたんじゃないんですか?   結構楽しもうと思えば孤独もさみしさも楽しめますよ。 集団の面倒臭さもありませんし、意思決定も早いですし、自己責任の上で物事が進んでいくのでどんな結果が出ても納得せざるを得なく割りきれてサッパリしていて。 孤独もさみしさも角度を変えて考えれば最高の時間になりえます。   さみしさから何かに頼るのは、少し恐い考え方かもしれません。 孤独がゆえに違法薬物に依存する。 さみしさがゆえに誰かれ構わず性交渉を持ってしまう。 孤独が故に偏った思想に傾倒していく。 さみしさが故に誰かを傷つけてしまう。   さみしさも孤独も内包的で拭い去る事はできない感情、元々拭い去る事ができないものを誤魔化すために何かに依存したり心酔したりすることはあまり意味の無いことなのではないでしょうか(程度にも寄りますが)?   多くの人を敵にまわすような言い方をしてしまいごめんなさい。 しかし、冷静に考えると一時的な誤魔化しのために自分の軸が崩れてしまうかもしれない危ういものに手を出すのは少し心配だよ、という気持ちです。   冷静で理知的なスタンスをいつもとり続けられるほど、人間そこまで強くないから宗教が発明されたんだと思います。 そして、宗教を否定する気はありません。 故に誤魔化しでも緩和でも一時的な処置としても心を安静に安寧にさせる「やすらぎ」のようなものはあってもいいと思います。   実は「ハイパースナック」にもそんな要素が盛り込まれています。 拭い去る事ができない「孤独」や「さみしさ」の一時的な誤魔化し、安定剤として他者との酒場でのコミュニケーションが有効かと思われます。   ハイパースナックサザナミは「孤独」や「さみしさ」といった人間にデフォルトで付随する「痛み」の「痛み止め」といった役割を兼ねています。 寄りかかってきて頂いて、依存して頂いて結構です。 手助けも、ヘルプも介助もしませんが、自己責任の上で依存して頂くのは大歓迎です。   「孤独」も「さみしさ」も味方にできない時、道玄坂をテクテクと登ってきて下さい。   まだ本決まりではありませんが7/22が正式オープン日になりそうです! ...

数年前、梅雨時期に渋谷の外れにある小さな飲み屋で、とある人と出会った。 紫陽花のような、そんな人だった。 雨に濡れながらひっそりと、しかし、確かな存在感で咲いていた。 土の性質で咲く花の色が違うように、育ってきた環境や慣習が違えば違うように人間(大人)になる。 「違う」から楽しい、「違う」から人は出会い、ひかれ合うのだと、その人は言っていた。 ボクは「同じ」だからこそ共感し分かり合い、ひかれ合うと思っていた。 「違う」ことは全然悪くはないんだと初めて気がついた、「同じ」ことを確認し合い、見せかけの安心を手に入れて錯覚を起こしていては何も起こらないし、変わらないと思った。 「違う」人に会い、違うことを分かり合いたかった、「違う」からといって、違和感を感じ排除、排斥する、そんなことを繰り返していてもやはり何も起こらないし、変わりはしないんだと同じように気がついた。 「違い」を分かった上で、じゃあいったい何が生まれるのか? どちらかの主張を通すのではなく、異なった2つの考えや主張を合わせて何かを生む、多分、こういう流れでしか何かを起こすことも、何かを変えることも出来ないのだと、感じた。 色んな「違う」と出会い、噛みしめて自分をアップデートし続けていく、これは非常に豊かな事だと思います。 自分を「自分」のまま留めておくのは勿体のうございますぞ。 自分を変えていく、広く「違い」を知り、合わせて新しい考えにシフトしていくこと、それは素敵な事だと思います。 教典にも聖書にも、誰かが超昔に作った法律や常識も、もしかしたアナタを縛る「何か」でしかなく、そういう「何か」の集合体で時代が次のタームに移りゆくスピードが遅らされているとしたら… なんと勿体無いことか! 自分を変えていくことに恐怖しないで、きっとうまくいくし、結局は過去の先人たちもスピードの緩急はあるものの同様に変わり続けて生き続けてきたのだから… ひっそりと咲く紫陽花のような人はモルトをちびりと舐めながら、そう気づかせてくれた。 毎年梅雨が来るとあの人を思い出す、あの人は、もうどこにも咲いていない…   ...

渋谷の街に溶けてみる、そんな体験はどうでしょうか? 渋谷の街に繰り出して飲んでみる、酒を。 酔って漂うように街をフラフラする、それは渋谷の街に溶けるという事だと思います。 街、いいですよ。 街って毎日違う表情ですからね、そういうのを全身で受け入れて自分の糧にしてみるってのは非常に楽しい行為だと思います。 引きこもるのも楽しいですけど、街に出てみると色んな作用で変化が起こるんですよね、勿論良い変化も悪い変化もあるので、全部自分の責任の上で楽しまなければいけませんが、色んな変化は一切無駄がないんですよね、全てが勉強になると言えます。 街に繰り出すなら、特に個人でやっているお店、バーやスナックはいいんじゃないでしょうか? チェーン店と違って個性もあるし、お店の人やお客さんたちと仲良くなって色々な事を教えてもらったり、逆に教えてあげたり、そういうやり取りが何気なく自分自身の栄養になって普段気が付かなかったことに気がついたり、改めて自分自身の立ち位置を確認したり、非常に良いんじゃないでしょうか? じゃあどこに行けばいいんだ?という方はハイパースナックサザナミにおいでください、当店は「人」と「出会い」がテーマです。 ぜひポジティブなマインドで隣の席に座る人に、或いは相席になった人に話しかけてみて下さい、何かしらの「変化」が訪れ作用するかと思います。 リアルスペースでの生のコミュニケーションが化学反応を起して、何かしらの未来に影響していきます。 もしかしたら、この場所でコミュニケーションしたことで将来大富豪になるかもしれません。 もしかしたら、将来歴史に名を残す偉人になってしまうかもしれません。 もしかしたら、親友というかけがえのない宝物を得るかもしれません。 もしかしたら、永遠のライバルという存在に出会えるかもしれません。 もしかしたら、永遠の伴侶という存在に出会えるかもしれません。 もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら… この「もしかしたら」に価値があると思いませんか? もしかしたらという化学反応が起きやすい場所作りを目指したいと思います。 ハイパースナックサザナミは7月中旬〜後半に営業スタート予定です。 2016年の夏はどうやら楽しい夏になりそうですね…。 ぜひ、夏の渋谷に溶けに来てください。 渋谷 スナック ネオ酒場 ハイパースナック ハイパースナックサザナミ 渋谷区円山町5−3萩原ビルB1F...