さみしさとは一生のお付き合い

人間誰しもさみしいものです。

例え家族が居ようが恋人が居ようが仲間が居ようが、決定的に最後の部分では孤独です、さみしいものなのです。
悲しいけれども人間はそういう風にできているのです。
 
死ぬ時は、生命がこと切れる時は、最後の一瞬意識を失う時は必ず意識は一人です、自分で部屋のライトを消すように命の光を落とすのです(意識もなくそういう状況になる場合も多く、それも孤独といえます)。
 
そもそも孤独について、さみしさについてなぜこんなに人間はマイナスイメージを持つのでしょうか?
そして孤独とは、さみしさとはそんなに忌み嫌うものなのでしょうか?
 
人は一人では生きていけません、誰かの手助けや心遣い、他者との関わりあいで人生は成り立ちます。
生まれてこの方まったく誰の力も借りずに生きている人間など皆無です。
 
衣食住には他者との関わりあいが必須です、何かを買うにも誰かと関わりあいます。
例えお金を渡し「レシートはいりますか?」「いりません」という簡単な会話も大小の差はありますが「関わりあい」です。
他者との関わりあいもなく成人になる人間なんて現代日本においてはありえません。
 
誰との関わりあいもなく生きる、それが「孤独」であり、まったくの孤独100%で今までずっと生きてきた人なんて、ただの一人も居ないと思います。
例えば、過激なことを言いますがいじめた者、いじめらた者、その二者感には加害者と被害者であるという関係性が生まれますし、そういう一見良くない行為においても「関わりあい」は存在しているのだと思います。
 
「自分は孤独である、さみしい生き物だ」という意識、そしてそこから生まれてくる「さみしさ」とはなぜ生まれてくるのでしょうか?
 
考察される一つの原因としては他者の非孤独、非さみしさ、つまりは「集団で居る」「組でいる」「団結している」「団欒がある」「にぎやかしくいる」「団結している」その様が羨ましく、妬ましく、自分にその状態が無いからこそ孤独を感じ、さみしさも併発するのではないでしょうか?
 
面白いことに「孤独」の対義語、反意語って正式な固定された語ってないんですよね。
「孤独」の反対の言葉が無い…これは的を射ているんじゃないんでしょうか?
 
つまり「孤独」とは内包的なもので本当は実態のないもの、というか人は誰しも元々孤独であり、さみしいものであるという事実、そこからどう逃げようと足掻いても結局は無駄という…
ちょっと考えたらそんな思考にたどり着きました。
 
しかし、果たしてこの「孤独」というやつ、「さみしさ」というやつ、果たしてそんなに皆が嫌うほど悪い奴なのでしょうか?
 
もし孤独やさみしさが存在しえ無かったら?
素晴らしい文学作品に心を奪われるような美術作品は生まれたでしょうか?
感情が鮮やかに伝わる名曲に詩、クリエイティブ的なものはここまで発展したでしょうか?
科学技術の発展にも貢献しているかもしれません。
世の中を動かす上で必要不可欠なものなのかもしれません。
 
当たり前かもしれません、人間のプリセットの一部に「孤独」も「さみしさ」も組み込まれている基本的な内包感情であり、それが人間を成り立たせている重要な根幹の一つであるからです。
 
つまり「孤独」上等、「さみしさ」歓迎、という姿勢で生きていけばいいんじゃないでしょうか?
まあ、いずれにしても人は誰しも孤独になり、さみしさをと共に生きる、生きざるを得ない生き物ですからね…。
致し方無い部分もあるかと思うんです。
 
自分の場合「孤独」や「さみしさ」の中に自分を鍛錬し磨ける部分を見出していたりします。
圧倒的に何か閃いたり、考えついたり、物事を動かす重要な判断って孤独の中に、さみしさの中に、そういう時間の中にあるような気がします。
 
自分で孤独の中考えた事を後日誰かに話してみたり提案してみたり、そこでもらったアドバイスや助言を噛み砕くためにまた一人になって考えてみたりして物事を決めていったりします。
慎重な人ほどより孤独なのかもしれませんね。
 
そう考えると意外と孤独やさみしさも案外悪い奴じゃないように思えてきたんじゃないんですか?
 
結構楽しもうと思えば孤独もさみしさも楽しめますよ。
集団の面倒臭さもありませんし、意思決定も早いですし、自己責任の上で物事が進んでいくのでどんな結果が出ても納得せざるを得なく割りきれてサッパリしていて。
孤独もさみしさも角度を変えて考えれば最高の時間になりえます。
 
さみしさから何かに頼るのは、少し恐い考え方かもしれません。
孤独がゆえに違法薬物に依存する。
さみしさがゆえに誰かれ構わず性交渉を持ってしまう。
孤独が故に偏った思想に傾倒していく。
さみしさが故に誰かを傷つけてしまう。
 
さみしさも孤独も内包的で拭い去る事はできない感情、元々拭い去る事ができないものを誤魔化すために何かに依存したり心酔したりすることはあまり意味の無いことなのではないでしょうか(程度にも寄りますが)?
 
多くの人を敵にまわすような言い方をしてしまいごめんなさい。
しかし、冷静に考えると一時的な誤魔化しのために自分の軸が崩れてしまうかもしれない危ういものに手を出すのは少し心配だよ、という気持ちです。
 
冷静で理知的なスタンスをいつもとり続けられるほど、人間そこまで強くないから宗教が発明されたんだと思います。
そして、宗教を否定する気はありません。
故に誤魔化しでも緩和でも一時的な処置としても心を安静に安寧にさせる「やすらぎ」のようなものはあってもいいと思います。
 
実は「ハイパースナック」にもそんな要素が盛り込まれています。
拭い去る事ができない「孤独」や「さみしさ」の一時的な誤魔化し、安定剤として他者との酒場でのコミュニケーションが有効かと思われます。
 
ハイパースナックサザナミは「孤独」や「さみしさ」といった人間にデフォルトで付随する「痛み」の「痛み止め」といった役割を兼ねています。
寄りかかってきて頂いて、依存して頂いて結構です。
手助けも、ヘルプも介助もしませんが、自己責任の上で依存して頂くのは大歓迎です。
 
「孤独」も「さみしさ」も味方にできない時、道玄坂をテクテクと登ってきて下さい。
孤独hosizoranokodoku1
 
まだ本決まりではありませんが7/22が正式オープン日になりそうです!
SAZANAMI
SAZANAMI

ハイパースナック サザナミは2016年7月動き出します。 新しいジャンル、BARでもありスナックでもあり、懐かしくて、でもどこか新しい、そんな不思議なお店です。 テーマは「人」そして「出会い」、どんな人が集い出会いを形成していくのか?その先にどんな「未来」があるのか?非常に楽しみです。