紫陽花のような人
数年前、梅雨時期に渋谷の外れにある小さな飲み屋で、とある人と出会った。
紫陽花のような、そんな人だった。
雨に濡れながらひっそりと、しかし、確かな存在感で咲いていた。
土の性質で咲く花の色が違うように、育ってきた環境や慣習が違えば違うように人間(大人)になる。
「違う」から楽しい、「違う」から人は出会い、ひかれ合うのだと、その人は言っていた。
ボクは「同じ」だからこそ共感し分かり合い、ひかれ合うと思っていた。
「違う」ことは全然悪くはないんだと初めて気がついた、「同じ」ことを確認し合い、見せかけの安心を手に入れて錯覚を起こしていては何も起こらないし、変わらないと思った。
「違う」人に会い、違うことを分かり合いたかった、「違う」からといって、違和感を感じ排除、排斥する、そんなことを繰り返していてもやはり何も起こらないし、変わりはしないんだと同じように気がついた。
「違い」を分かった上で、じゃあいったい何が生まれるのか?
どちらかの主張を通すのではなく、異なった2つの考えや主張を合わせて何かを生む、多分、こういう流れでしか何かを起こすことも、何かを変えることも出来ないのだと、感じた。
色んな「違う」と出会い、噛みしめて自分をアップデートし続けていく、これは非常に豊かな事だと思います。
自分を「自分」のまま留めておくのは勿体のうございますぞ。
自分を変えていく、広く「違い」を知り、合わせて新しい考えにシフトしていくこと、それは素敵な事だと思います。
教典にも聖書にも、誰かが超昔に作った法律や常識も、もしかしたアナタを縛る「何か」でしかなく、そういう「何か」の集合体で時代が次のタームに移りゆくスピードが遅らされているとしたら…
なんと勿体無いことか!
自分を変えていくことに恐怖しないで、きっとうまくいくし、結局は過去の先人たちもスピードの緩急はあるものの同様に変わり続けて生き続けてきたのだから…
ひっそりと咲く紫陽花のような人はモルトをちびりと舐めながら、そう気づかせてくれた。
毎年梅雨が来るとあの人を思い出す、あの人は、もうどこにも咲いていない…