月曜ママさんノゾミさん、頑張って頂きました。 気さくでお話がうまいママさんです、そう、そしてセクシー系ですね。 ハイパースナックをぜひ体験しに皆さん来てくださいね。 ...

今日からハイパースナック平日もスタートです。 今日のママはノゾミさん。 日々スナック道邁進です。 ハイパーでありながら古き好きスナック感も感じられるよう店作りに頑張って行きたいと思います。 小さなスナックではありますが皆様よろしくお願い致します。 小さなスナック...

本日クラウドファンディングが終了します。 おかげ様で160%代、目標を大幅に上回りました。 応援くださる多くのパトロン様、ならびに私のクラウドファンディングを拡散してシェアして頂いた皆さんには本当に感謝しております! クラウドファンディングは本日で締め切りですが、お店はいよいよこれからが本番です。 明日29日金曜、本オープンとなります。 電化製品系が一部業者さん都合で遅れます。 具体的にはTVモニター、WiiU、iPad、空気清浄機、カラオケ機器、ワインセラー、サブで使う冷蔵庫、電化製品系中心に揃いません。 なので最初はBGMでBAR的な営業になります。エンタメ系はカードゲーム、人狼、大富豪(トランプゲーム)などアナログなものでお楽しみ頂ければと思います。 自分のツメも甘く、このようなスケジュールになってしまい、大変申し訳ございません。 ご容赦下さいますようお願い致します。 何卒よろしくお願い致します。   ...

サントリーさんが最近売りたいのはコレ! ジムビーム!!!!     しかし、なかなかジムビームはバーボン特有のクセがあって売りにくいのが実情。 そこで渋谷は道玄坂でジムビームのハイボールを流行らせようじゃないか〜ってことで名前だけ先行します。 その名も「道玄坂ビームハイ」あんちょくですが分かりやすいしサントリーの営業さんには世話になっているし 道玄坂ビームハイ流行らせようじゃないの! じゃあ何が他のハイボールと違うのか?? 肝心なそこがまだまだでして、、、汗 しかしながら、ジムビームは私も若いころから好きだったバーボンだし、旨いレシピ考えてみようと思います。 地域からある特定の飲み物を流行らせる、少し前はよくあった手法ですが、今は一周まわって面白く映るんじゃないかな? レシピの基準としては年中手に入る、どこにでもある材料でハイボールにプラスモアな感じで出せるやつ。 基本、割もんであるソーダの割合が8割以上あること、じゃないとハイボールって言えないですしね。 既存のレシピでもよし、同じ料理や果物でも複数呼び方があるものはあるしね、これはこれで有りだと思います。 とにかく名前だけ先行しています「道玄坂ビームハイ」頑張って売っちゃうよ〜。。 ハイパースナックではこういう企画をどんどんやろうと思っています、一緒に何か考えたいメーカーさん、同業者さん大歓迎です!ぜひ声かけて下さい〜!!!!...

  スナックのイメージってどんなんですか?   人によって様々だと思います。 例えば古い知り合いに今度うちの店スナックになるんだよって伝えたら「え、これからは来にくくなるな〜、カミさんに言い訳がたたない」とか「女性客は来てもいいの?」とか「おさわりはあるの?」なんて言葉まで… いくらスナックのイメージが人それぞれとは言えなかなかひどいもんですねw   スナックは性風俗店でもキャバクラとも違います。 一般的には「ママさん」とよばれる女性が店長のお店が多いですが、決して絶対条件ではなく男性つまり「マスター」が切り盛りするスナックも数多く存在しています。 そして、お客さんは男性が多いイメージですが昨今のスナックでは女性客が増加しています。 女性が一人で来てもOKなのです。 というか、最近では女性客の団体でスナック貸し切りなんて現象もあるくらい女性に一般化されてきています。 スナックは女性を売りにしてやっている男性向けの「エロい」商売だという固定概念をもし今もアナタがお持ちならそれは恥をかくので考えを改めた方が良いかもしれません。   ハイパースナックはいわゆる現行のスナックよりさらにカジュアル、「人」と「出会い」がテーマですからね。 訪れたお客さん同士が交流を持つことを前提とした「空間」「場」「スペース」なので、いわゆるスナックはいかがわしい男性向けの商売というまったく前時代的な思考をお持ちの方はご来店頂かなくても結構です。 新時代の新思考の新スペース、そういう部分にアンテナが高い人、感度の高い人はぜひご一緒に「場」を作っていきましょう。 そしてコミュニケーションが鍵になってきますので、コミュニケーションを円滑に取る気がない、取る努力もないと厳しいかもしれません。 誰だってそうですが、他人が嫌がることをする人とコミュニケーション取ろうと思いませんし、話しかけてもそっぽを向く人に次の会話のチャンスは訪れません、常識的な態度とジェントルさをもって交流することが前提です、というかそういう事がそもそもできないとハイパースナックという新スペースを楽しむことは出来ないかもしれません。 コミュニケーション、会話、察する力、想像力、それらのバランスが取れている人はハイパースナックという「場」を楽しみ、作っていくことができるのかもしれません。 なんだかお店なのに色々と小難しいし面倒くさいな〜、とお思いの方も多いかもしれません。 しかしながら、新しい場、新しい空間というのはそこに居る人達によって「作られていく」ものなのです、発展途上の場なので、それに付随する面倒くさいことも増えていきます。途中でルールが改変することもあるかもしれません、そういう難しい状況下で「場」としての認知や基準が出来てイメージと共に固定化していくわけです。   ハイパースナックはまだ出来たばかり(とうか正式に言うとオープンが29日なのでまだ出来ていないのですが…)子供で言えば産声をあげたばかりです、この生まれたばかりの赤ちゃんを誰もが知っている英雄に育てるか、否か?それはこの場所に来てくれるお客さん、お店側スタッフ、関わる人達のアティテュードに寄るのです。 なので当店は「お客様は神様」という、よくある飲食店の方針はとりません、お客様は良き友人であり、新しいハイパースナックという場を一緒に耕してくれる「仲間」「同志」「共同作業者」そんな認識で進んでいきたいと思っております。 スナックのイメージをまず現代の基準に調整して下さい。 スナックは男性向けだけのいかがわしいお店ではありません、女性が一人で訪れても楽しめる「場」です。 特にハイパースナックのターゲット層は古典的なスナックに行ったことのない若い層、新しい「場」に興味があり、それに関わりたいと思っている感度の高い方たちです。 そして面白いことに貪欲で好奇心旺盛で新しい試みにチャレンジングできる人たちです。 ハイパースナックが「スナック」のイメージの向上にやがてつながれば非常に嬉しいなと思います。 そうなることを目標とし頑張りたいと思っています。   ...

人間誰しもさみしいものです。 例え家族が居ようが恋人が居ようが仲間が居ようが、決定的に最後の部分では孤独です、さみしいものなのです。 悲しいけれども人間はそういう風にできているのです。   死ぬ時は、生命がこと切れる時は、最後の一瞬意識を失う時は必ず意識は一人です、自分で部屋のライトを消すように命の光を落とすのです(意識もなくそういう状況になる場合も多く、それも孤独といえます)。   そもそも孤独について、さみしさについてなぜこんなに人間はマイナスイメージを持つのでしょうか? そして孤独とは、さみしさとはそんなに忌み嫌うものなのでしょうか?   人は一人では生きていけません、誰かの手助けや心遣い、他者との関わりあいで人生は成り立ちます。 生まれてこの方まったく誰の力も借りずに生きている人間など皆無です。   衣食住には他者との関わりあいが必須です、何かを買うにも誰かと関わりあいます。 例えお金を渡し「レシートはいりますか?」「いりません」という簡単な会話も大小の差はありますが「関わりあい」です。 他者との関わりあいもなく成人になる人間なんて現代日本においてはありえません。   誰との関わりあいもなく生きる、それが「孤独」であり、まったくの孤独100%で今までずっと生きてきた人なんて、ただの一人も居ないと思います。 例えば、過激なことを言いますがいじめた者、いじめらた者、その二者感には加害者と被害者であるという関係性が生まれますし、そういう一見良くない行為においても「関わりあい」は存在しているのだと思います。   「自分は孤独である、さみしい生き物だ」という意識、そしてそこから生まれてくる「さみしさ」とはなぜ生まれてくるのでしょうか?   考察される一つの原因としては他者の非孤独、非さみしさ、つまりは「集団で居る」「組でいる」「団結している」「団欒がある」「にぎやかしくいる」「団結している」その様が羨ましく、妬ましく、自分にその状態が無いからこそ孤独を感じ、さみしさも併発するのではないでしょうか?   面白いことに「孤独」の対義語、反意語って正式な固定された語ってないんですよね。 「孤独」の反対の言葉が無い…これは的を射ているんじゃないんでしょうか?   つまり「孤独」とは内包的なもので本当は実態のないもの、というか人は誰しも元々孤独であり、さみしいものであるという事実、そこからどう逃げようと足掻いても結局は無駄という… ちょっと考えたらそんな思考にたどり着きました。   しかし、果たしてこの「孤独」というやつ、「さみしさ」というやつ、果たしてそんなに皆が嫌うほど悪い奴なのでしょうか?   もし孤独やさみしさが存在しえ無かったら? 素晴らしい文学作品に心を奪われるような美術作品は生まれたでしょうか? 感情が鮮やかに伝わる名曲に詩、クリエイティブ的なものはここまで発展したでしょうか? 科学技術の発展にも貢献しているかもしれません。 世の中を動かす上で必要不可欠なものなのかもしれません。   当たり前かもしれません、人間のプリセットの一部に「孤独」も「さみしさ」も組み込まれている基本的な内包感情であり、それが人間を成り立たせている重要な根幹の一つであるからです。   つまり「孤独」上等、「さみしさ」歓迎、という姿勢で生きていけばいいんじゃないでしょうか? まあ、いずれにしても人は誰しも孤独になり、さみしさをと共に生きる、生きざるを得ない生き物ですからね…。 致し方無い部分もあるかと思うんです。   自分の場合「孤独」や「さみしさ」の中に自分を鍛錬し磨ける部分を見出していたりします。 圧倒的に何か閃いたり、考えついたり、物事を動かす重要な判断って孤独の中に、さみしさの中に、そういう時間の中にあるような気がします。   自分で孤独の中考えた事を後日誰かに話してみたり提案してみたり、そこでもらったアドバイスや助言を噛み砕くためにまた一人になって考えてみたりして物事を決めていったりします。 慎重な人ほどより孤独なのかもしれませんね。   そう考えると意外と孤独やさみしさも案外悪い奴じゃないように思えてきたんじゃないんですか?   結構楽しもうと思えば孤独もさみしさも楽しめますよ。 集団の面倒臭さもありませんし、意思決定も早いですし、自己責任の上で物事が進んでいくのでどんな結果が出ても納得せざるを得なく割りきれてサッパリしていて。 孤独もさみしさも角度を変えて考えれば最高の時間になりえます。   さみしさから何かに頼るのは、少し恐い考え方かもしれません。 孤独がゆえに違法薬物に依存する。 さみしさがゆえに誰かれ構わず性交渉を持ってしまう。 孤独が故に偏った思想に傾倒していく。 さみしさが故に誰かを傷つけてしまう。   さみしさも孤独も内包的で拭い去る事はできない感情、元々拭い去る事ができないものを誤魔化すために何かに依存したり心酔したりすることはあまり意味の無いことなのではないでしょうか(程度にも寄りますが)?   多くの人を敵にまわすような言い方をしてしまいごめんなさい。 しかし、冷静に考えると一時的な誤魔化しのために自分の軸が崩れてしまうかもしれない危ういものに手を出すのは少し心配だよ、という気持ちです。   冷静で理知的なスタンスをいつもとり続けられるほど、人間そこまで強くないから宗教が発明されたんだと思います。 そして、宗教を否定する気はありません。 故に誤魔化しでも緩和でも一時的な処置としても心を安静に安寧にさせる「やすらぎ」のようなものはあってもいいと思います。   実は「ハイパースナック」にもそんな要素が盛り込まれています。 拭い去る事ができない「孤独」や「さみしさ」の一時的な誤魔化し、安定剤として他者との酒場でのコミュニケーションが有効かと思われます。   ハイパースナックサザナミは「孤独」や「さみしさ」といった人間にデフォルトで付随する「痛み」の「痛み止め」といった役割を兼ねています。 寄りかかってきて頂いて、依存して頂いて結構です。 手助けも、ヘルプも介助もしませんが、自己責任の上で依存して頂くのは大歓迎です。   「孤独」も「さみしさ」も味方にできない時、道玄坂をテクテクと登ってきて下さい。   まだ本決まりではありませんが7/22が正式オープン日になりそうです! ...

数年前、梅雨時期に渋谷の外れにある小さな飲み屋で、とある人と出会った。 紫陽花のような、そんな人だった。 雨に濡れながらひっそりと、しかし、確かな存在感で咲いていた。 土の性質で咲く花の色が違うように、育ってきた環境や慣習が違えば違うように人間(大人)になる。 「違う」から楽しい、「違う」から人は出会い、ひかれ合うのだと、その人は言っていた。 ボクは「同じ」だからこそ共感し分かり合い、ひかれ合うと思っていた。 「違う」ことは全然悪くはないんだと初めて気がついた、「同じ」ことを確認し合い、見せかけの安心を手に入れて錯覚を起こしていては何も起こらないし、変わらないと思った。 「違う」人に会い、違うことを分かり合いたかった、「違う」からといって、違和感を感じ排除、排斥する、そんなことを繰り返していてもやはり何も起こらないし、変わりはしないんだと同じように気がついた。 「違い」を分かった上で、じゃあいったい何が生まれるのか? どちらかの主張を通すのではなく、異なった2つの考えや主張を合わせて何かを生む、多分、こういう流れでしか何かを起こすことも、何かを変えることも出来ないのだと、感じた。 色んな「違う」と出会い、噛みしめて自分をアップデートし続けていく、これは非常に豊かな事だと思います。 自分を「自分」のまま留めておくのは勿体のうございますぞ。 自分を変えていく、広く「違い」を知り、合わせて新しい考えにシフトしていくこと、それは素敵な事だと思います。 教典にも聖書にも、誰かが超昔に作った法律や常識も、もしかしたアナタを縛る「何か」でしかなく、そういう「何か」の集合体で時代が次のタームに移りゆくスピードが遅らされているとしたら… なんと勿体無いことか! 自分を変えていくことに恐怖しないで、きっとうまくいくし、結局は過去の先人たちもスピードの緩急はあるものの同様に変わり続けて生き続けてきたのだから… ひっそりと咲く紫陽花のような人はモルトをちびりと舐めながら、そう気づかせてくれた。 毎年梅雨が来るとあの人を思い出す、あの人は、もうどこにも咲いていない…   ...

渋谷の街に溶けてみる、そんな体験はどうでしょうか? 渋谷の街に繰り出して飲んでみる、酒を。 酔って漂うように街をフラフラする、それは渋谷の街に溶けるという事だと思います。 街、いいですよ。 街って毎日違う表情ですからね、そういうのを全身で受け入れて自分の糧にしてみるってのは非常に楽しい行為だと思います。 引きこもるのも楽しいですけど、街に出てみると色んな作用で変化が起こるんですよね、勿論良い変化も悪い変化もあるので、全部自分の責任の上で楽しまなければいけませんが、色んな変化は一切無駄がないんですよね、全てが勉強になると言えます。 街に繰り出すなら、特に個人でやっているお店、バーやスナックはいいんじゃないでしょうか? チェーン店と違って個性もあるし、お店の人やお客さんたちと仲良くなって色々な事を教えてもらったり、逆に教えてあげたり、そういうやり取りが何気なく自分自身の栄養になって普段気が付かなかったことに気がついたり、改めて自分自身の立ち位置を確認したり、非常に良いんじゃないでしょうか? じゃあどこに行けばいいんだ?という方はハイパースナックサザナミにおいでください、当店は「人」と「出会い」がテーマです。 ぜひポジティブなマインドで隣の席に座る人に、或いは相席になった人に話しかけてみて下さい、何かしらの「変化」が訪れ作用するかと思います。 リアルスペースでの生のコミュニケーションが化学反応を起して、何かしらの未来に影響していきます。 もしかしたら、この場所でコミュニケーションしたことで将来大富豪になるかもしれません。 もしかしたら、将来歴史に名を残す偉人になってしまうかもしれません。 もしかしたら、親友というかけがえのない宝物を得るかもしれません。 もしかしたら、永遠のライバルという存在に出会えるかもしれません。 もしかしたら、永遠の伴侶という存在に出会えるかもしれません。 もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら… この「もしかしたら」に価値があると思いませんか? もしかしたらという化学反応が起きやすい場所作りを目指したいと思います。 ハイパースナックサザナミは7月中旬〜後半に営業スタート予定です。 2016年の夏はどうやら楽しい夏になりそうですね…。 ぜひ、夏の渋谷に溶けに来てください。 渋谷 スナック ネオ酒場 ハイパースナック ハイパースナックサザナミ 渋谷区円山町5−3萩原ビルB1F...